題名のない雑記帖

まだまだ道半ば。今はまだタイトルをつける時じゃない。

3月18日・19日


・最近、夜は占いやバシャールやエイブラハムの言葉で心の安定をはかって、朝になると淋しい感情になるのを繰り返してる。今日は天氣が悪いから余計に沈んでいるのかもしれない。
なかなか心が安定しない。この前の謎のワクワク感もどこかにいってしまった。
先週から身体も凄く疲れてる。

・久しぶりにHYの〝366日〟を聴いてしまった。
だってまた氣が付くと山羊くんのことばかり浮かんでくる。
聴きながら歩いているうちに、ただ好きなのと執着の違いがわからなくなって、もう氣が済むまで山羊くんのこと考えればいいや!って思った。
多分まだこの感情を味わい尽くせてないから安定しないし考えちゃうんだ。
中途半端なまま手放そうとした。手放すのも、また繋がりたい欲からやろうとした。
これじゃ意味がない、上手くいかないのはもう解っているのに。
まだそれが出来る心の段階じゃないのに。
また焦りからやってたことだった。

それに絶対忘れるなんて出来ない。別格だから。
父親的な~、と言われても、それだから噛み合わないんだとしても、わたしの好きはこの形だ。
わたしのはこの世の好きの要素全部合わせた感じだから、どうしても恋愛要素も入る。

・帰り道でも朝い引き続き366日を聴きながら一緒に口ずさんでいたらだいぶ氣持ちが落ち着いた。不思議だ。
制限を外して今の感情を思いっきり味わったからかな、凄く氣持ち良かった。

3月19日
・最近のもやもやはアウトプットが滞っていたことも原因かなと思っていたが、今日のリーディングでまさにそれを言い当てられた。
書くことによって手放せるとも言っていたけど、本当にそうなんだろう。
覚える為に書くものだと教わってきたからそんな発想なかったけど、確かに書くことで手放せるものがあった。
不思議だけど、ここまでの経験があるからこそこの逆転現象が味わえているのだろう。

・心理カウンセラーの人の動画が上がってきて観てみたら境界性人格障害についての話だったんだけど、聴いていたらわたしはこれにも当てはまるのではと思えてきた。
診断がつくレベルではないにしろその気があるのだろう。
試し行動とか、それが行き過ぎて結局自分で壊すとか、今までやってきたことがだいぶ当てはまる。
自分の不安を人になんとかしてもらおうとするようだ。
幼少期に親が不安を解消してくれなかった人は、むしろこれを家族には出せず、その分外の人にこれを出してしまうらしい。
あー、まさにこれを近しく感じる人にやってきた。
こういう行動は相手に対する暴力行為らしい。

あの、いきなり不意打ちでドッジボール投げ付けたように思えたのはこれだったんだな。。
今まで、大なり小なり友達にもやってきたと思う。
なんだかこの話を聴いて考えていたら、物凄く恥ずかしい事をしてきた自覚が出てきて、また暗い氣持ちになった。

もう会いたいなんて言えないな。
昨日はあんなに会いたくて堪らなかったのに。

本当に、AC問題は根が深すぎるし人生全般に置いて影響が強過ぎる。
自分の問題として捉えなきゃ終わらないのは理解したけど、本当に迷惑な話だ。
こういうことがあったから心理的な問題に関心を持つようになったんだと前向きに捉えたこともあったけど、この生き方はやっぱり苦しい。
本当にこのシナリオを書いて生まれてきたというのなら、何を学び、体験したいのか。
やはり愛とは何か、がテーマだからか。

・人はそれぞれ自分が創った現実世界を生きているという説を落とし込むのに、YouTubeが解りやすいいい例だと思った。
YouTube〟と言えばああアレね、と皆共通の認識があるが、興味のあるものは人それぞれ違うから、その人の観た動画の傾向からその後のオススメ動画の種類が決まってきて、その人なりのYouTubeの世界観が構築されていく。
こういうことがそれぞれの現実世界でも起きていると考えると解りやすい。