それでも、娘を誇りに思う
娘が今の娘に育ったことをとても誇りに思う。
自分が今の娘の歳だった頃と比べると、本当に色んなことをがんばっているし心身共にタフだし、我が子ながらシンプルに尊敬できる。
そこから、こんな認知の歪みが酷い人間が育ててしまったことの恐怖心も出てくるけど、この前初めてこの思考を打ち破る考えが出来た。
今まではここで自分を責めて終わりだった。
この前は、娘のこの部分に関してはわたしのこの面が、この部分は元夫のこの面がこのように作用して娘の人生や人格形成のこの部分をサポートできた、ときちんと事細かに分けて考えることが出来たのだ。
こう考えられるようになったことで、改めて自責の念って成長や前進することに対して何の糧にもならない行為だと思った。
こうして心の動きを観察することで自分の成長した部分を見つけられるようになったのも嬉しい。
今まで娘をあんな心持ちで育てたことの弊害が今後娘を苦しめることばかり心配していたけど、そもそも娘の方が尊敬出来る人物で魂年齢も上だろうし、赤ちゃんの時だって大仏のようなオーラを放っていたわけで、わたしの心配するレベルの事柄なんて一笑に伏す勢いで跳ね除けるパワーを持っている子だからわたし如きが心配することじゃないと、ふっと降りてきた。
育てたこと、育てられたこと、お互いにあの時間もそれぞれに意味があって過ごしたこと。
昔よく元夫に娘をナメるな!って言ってたけど、その台詞そっくりそのままわたし自身に返すわ。笑